【『信長公記』の嘘】信憑性の高い良質資料とはとても言えない

織田信長の史料といえばなんといっても『信長公記』です。
が……実は信憑性はあまり高いものではないんです。
『信長公記』信奉者の方は顔面蒼白必至の内容なので、ここから先は読まないことをオススメします……。
この記事を書いた私は……
●人気ブログランキングとにほんブログ村のオカルトランキング最高1位
●同じくにほんブログ村の医療ランキング最高4位
●ライブドアブログの歴史ランキング最高2位
●エキサイトブログの南京大虐殺タグ・人気記事ランキング1位
●グーグル検索結果3位以上の記事100本以上
……という者です。
ちなみにこの記事で以下のようなことがわかります。
●『信長公記』は太田牛一の創作である
これをわかりやすく説明します。
この記事によって1つ上のレベルの知識人になり、周囲に差をつけることができるようになれると思うので、ぜひ最後まで読んでください!
【「『信長公記』は信憑性の高い資料」という主張】
歴史研究家の鈴木眞哉さんと藤本正行さんは『信長は謀略で殺されたのか』の中で次のようなことを言っています。
本能寺の変は、天正10年(1582)6月2日(新暦7月1日)未明に京都で起きた。舞台となった本能寺は、北は六角通、南は四条坊門通、東は西洞院通、西は油小路通によって区切られた位置にあり、当時は「四条坊門西洞院の本能寺」と呼ばれていた。
事件のあとに行われた秀吉による都市計画で移転した現在の本能寺(京都市中京区寺町通御池入ル)からは、西へ約1000メートル、さらに南へ約300メートル行った場所にあった。
規模については諸説あるが、本能寺関係の史料編纂にあたられた藤井学氏は、周囲四町(約436メートル)と推定されている(『本能寺と信長』思文閣出版・2003年)。
これは信長が宿所とした寺の中心部分を指すと思われる。
当時、同寺にあった建物の全貌は明らかではないが、信長の家臣・太田牛一(1527~1610頃)の信長の伝記『信長公記』には、面(表)御堂、御殿、御厩の3つの建物名が見える。
謀反を知った信長が、白い小袖姿で本能寺の庭に面した廊下に立ち、群がる明智勢に弓で応戦する姿や、炎上する奥の一室でひとり静かに自害する姿は、映画、テレビ、歴史画、劇画から漫画まで繰り返し描かれている。多くの日本人にはおなじみの、この信長のイメージは、江戸時代のはじめに儒学者で医者で文筆活動家でもあった小瀬甫庵(1564~1640)が、信長の伝記小説『信長記』で広めたものだ。
ただし、この信長像は甫庵の創作ではなく、牛一の『信長公記』の記事の焼きなおしである。
若い頃から信長に仕え、事件当時55歳の牛一は、主君追慕の念と持ち前の好奇心とで、事件直後から情報収集を始めたようだ。
信長とともに本能寺にいた小姓たちは、ほとんど死んだらしいが、信長の身辺に付き添っていた女性たちは生還した。
池田家文庫所蔵の『信長公記』の牛一自筆の伝本には、信長の自害の記事を続けて、「女共、この時まで居り申し候て、様躰見申し候と、物語り候」とある。
牛一は、信長の最期を直前まで見ていた女性から情報を得たというわけだ。
さらに、信長を襲った明智軍は11日後の「山崎の戦い」で崩壊するが、明智の旧臣には戦後に他家に再就職したり、縁故を願って織田家の関係者の家に転がり込んだりした者がいた。
牛一はそうした人々からも情報は集めたかもしれない。
『信長公記』の記事は、常識的に見ても、他の良質資料と比較しても、かなりの信憑性が感じられる。
本能寺の本に関するもっともまとまった記録として貴重である。
【「女共」など存在していなかった】
まず、「牛一は信長の最期を直前まで見ていた女性から情報を得た」という話なんですが、これについては歴史研究家の井上慶雪さんが『本能寺の変 秀吉の陰謀』の中で名推理を展開しています。
引用します。
では、この「女共」とは何者なのか。「本能寺の変」まで信長の身辺についていたというが、厨房の奥深くの下働きの4、5人の女ならいざ知らず、際立った「女共」はほとんど皆無だったはずである。
なぜなら49歳の信長の身辺の世話は、お気に入りの小姓たちで事足りるし、1年ぶりの上洛(天正9年〔1581〕2月以来)も、今回は中国攻めの先立ちであり、なおかつ島井宗室との「本能寺茶会」が何よりも優先すべき事柄だったからである。
実際、信長最期の夜となる6月1には雨もあがり、警固担当の嫡子信忠が近くの妙覚寺から訪れて打ち合せをし、本因坊と碁に興じ、早朝からの「朝茶会」で疲れたせいか早めに床についていた。
何よりも決定的なことは、『信長公記』が成立し世に出たのは慶長15年(1610)2月、池田輝政に贈ったのが最初という事実である。
「本能寺の変」から28年後、徳川家康の死の6年前である。
しかも、現存する『信長公記』は3冊だが、当時は印刷技術などなくすべてが写本だったから、最終的には何冊あったのか、はたまた誰が読んだのかもわからない。
そう考えてくると、「是非に及ばず」という名台詞はいつごろから人口に膾炙されるようになったのだろう。意外に近年になってからのことかもしれないのだ。
私がもう1つ補足します。
おいおい説明することなんですが、当時の本能寺はB火災という大火災だったんです。
そんな中、女性たちを無事に逃げさせる《なんらかの方法&時間的余裕》など本当にあったのでしょうか?
もしもそんなものがあったのなら、家来たちは真っ先に信長を逃がしたはずです。
このように推理を進めていくと、《信長の最期を直前まで見ていた女共》など存在していなかったと結論付けざるをえないのです。
「信長の最期を直前まで見ていた女共など存在していなかった」──それはつまり太田牛一は『信長公記』を書く際、取材活動など一切おこなっておらず、特に本能寺の変の部分に関しては完全な創作だったというわけです。
【重要なことが書かれていない『信長公記』】
また『信長公記』には6・1の茶会やイエズス会のことなど、信長を語る上でぜったいに避けて通れないものが、なぜかまったく書かれていないそうだ。
こんな資料のどこをとって《信憑性の高い良質資料》などと言えるのでしょうか?理解に苦しみます。
【『信長公記』は本能寺の変黒幕の家臣が書いたもの】
また、鈴木さん・藤本さんは太田牛一のことを《信長の家臣》と言っていますが、加治将一さんの調べによると太田牛一は《信長の家臣の家臣》だったらしいです。
また、安部龍太郎さんによると、太田牛一と小瀬甫庵はのちに秀吉の家臣になったそうです。
つまり『信長公記』とは、信長暗殺の真の黒幕の家臣が書いたものだというわけです。
そんな資料に、いったいどれほどの真実が記されているというのでしょうか……?
最後までお読みいただきありがとうございます。感想をいただければ励みになります。
以下の目次に記事をまとめたので、興味がある方は併せて読んでみてください。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。