メシアの「知」の冒険(ムラゴンブログ編)

「超常現象や陰謀論の真相を暴いた」と称する懐疑論者と呼ばれる人たちがいますが、彼らは世紀のペテン師軍団なのです。このブログは彼らにほえ面をかかせ、総土下座に追い込むことが目的です。

【本能寺の変】明智光秀は謀略の達人ゆえ野望説はありえない

メシア@永遠の真実追及者



 明智光秀は真面目で誠実な人格者というイメージがありますが、実は表の顔と裏の顔を使い分ける謀略の達人だったんです。



 歴史の真相を知りたい方だけ、この記事をお読みになってください……。






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 ……という者です。



 ちなみにこの記事で以下のようなことがわかります。





 ●フロイスによると明智光秀は、裏と顔と表の顔を使い分ける謀略の達人だった





 これをわかりやすく説明します。



 この記事によって1つ上のレベルの知識人になり、周囲に差をつけることができるようになれると思うので、ぜひ最後まで読んでください!







【フロイスの光秀評】

 歴史研究家の鈴木眞哉さんと藤本正行さんは『信長は謀略で殺されたのか』の中で次のようなことを言っています。


 謀反の動機を論じる際に、必ず語られるのが光秀の人物像である。

 

 

 光秀については、古典的教養に富んだ謹直な常識人で、勤皇家でもあったというイメージが普及している。

 

 

 これらは、光秀を信長や秀吉とは対照的な人間とする思い込みから、彼らとは対照的なイメージを並べ立てたに過ぎない。

 

 

 保守的で温厚篤実な光秀が、革新的で短気な信長の仕打ちに耐えかね、ついに決起するという怨恨説のイメージも思い込みの産物である。

 

 

 フロイスが『日本史』に記した信長像は、「きわめて戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。(中略)

 

 

 はなはだ決断を秘し、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。



 彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた」というものである。これがもっとも有名で信用されている信長評であろう。

 

 

 フロイスはまた光秀評もしている。信長評が信用されるならば、光秀評も信用されそうなものだが、こちらのほうは、信用どころかまったく無視されている。

 

 

 フロイスの光秀評は、「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。



 また築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」というものである。

 

 

 この光秀評は、彼の末路も承知したうえで、悪意をこめて批評しているために、こうした表現になっていると考えられる。

 

 

 だが、そのような偏見を一切排して読み直せば、どうだろうか。



 後世の人々が漠然と想像しているところとは違った、一筋縄ではいかない、有能でしたたかな戦国人らしい戦国人としての光秀像が浮かんでくるではないか。

 

 

 同時代人によるこの光秀像を無視し、勝手な思い込みによる光秀像をもとに、謀反の動機を云々してみても始まるまい。

 

 

 高柳光寿氏は、光秀は決して保守派ではなく、合理主義者でもあったから、信長ともウマがあって、あのように重宝されたのではないかと言われたことがある。傾聴に値する光秀評と言えよう。


 もう1つ。


 (前略)光秀なんて、とてもひとりで大それたことをやれるようなタマではないという思いがあるから、背後で唆した人間がいるに違いないとか、言葉巧みに提携を持ちかけられて、それに乗ったのだろうとかいうような発想が出てくるのである。

 

 

 だが、現実の光秀は、本当にその程度のつまらない存在だったのだろうか。

 

 

 その点については、宣教師ルイス・フロイスが、これまでの〈歴史常識〉とはまったく違う光秀像を提示していることを取り上げた。

 

 

 偏見を取り払って、これを虚心に読めば、一筋縄ではいかない、したたかで有能な戦国人らしい戦国人としての光秀の実像が浮かび上がってくる。これなら信長にだって、優に拮抗しえただろう。

 

 

 また、最初に光秀の学問的伝記を書かれた高柳光寿氏が、光秀と信長とは、本来、ウマが合う人間だったのではないかと言われていることにも、そこで触れた。

 

 

 これは、大変、重要なところを衝いているように思われる。

 

 

 信長が光秀をどう評価していたかについて、しばしば引かれるものに、信長が本能寺の変の2年前に、佐久間信盛に与えた、いわゆる折檻状がある。

 

 

 その中で信長は、家中の誰よりも先に光秀の名をあげて、彼の功績を讃えているが、それは単なるそのときの気分によるものではなかったはずだ。

 

 

 高柳氏は、事件当時の光秀の位置を、〈近畿管領〉とでもいうべきものだとされている。

 

 

 信長が光秀にこんな重要な役割を与えたのは、単に彼が室町幕府と旧縁があったからとか、朝廷との折衝に都合がよかったからとかいうだけの理由ではあるまい。

 

 

 やはり、光秀を自分と同じような考え方のできる人間だと見ていたからであろう。

 

 

 光秀に与えられた所領の中には、近江坂本と丹波亀山の二城が含まれている。

 

 

 これらは京都にとって、きわめて重要な位置である。言わば、信長は、都の表門と裏門の鍵を光秀に預けたようなものである。

 

 

 そのことを考えても、信長の光秀に対する評価の一端がうかがえるのではないだろうか。

 

 

 かつて、桑田忠親氏は、信長・秀吉・家康などは、怪物的な超大物だが、光秀なんて忠実なサラリーマンタイプの男でしかないという趣旨のことを言われた。

 

 

 その程度の人間が天下取りなど企てるはずがないという論法で、ご自身のいわゆる怨恨説を裏付けようとされたのである。

 

 

 だが、成功した人間は、とことん持ち上げ、失敗した人間は、どこまでも酷評するというのは、典型的な結果論でしかない。

 

 

 また、謀反の動機がどうあれ、本能寺の変後の光秀が、天下取りに向かって手を打っていたことは、まぎれもない事実である。







【光秀は謀略の達人だったからこそ黒幕説の可能性が高い】

 鈴木さん・藤本さんは……





 「信長と光秀はウマが合った上、光秀には充分信長に対抗できる能力があった。よって怨恨説はありえない。野望説が正解なのだ」





 ……と言いたいようですね。



 しかし、鈴木さん・藤本さんは矛盾をおかしていることに気づけていないようです。



 フロイスによると光秀は鈴木さん・藤本さんも引用しているように《表の顔と裏の顔を巧みに使い分ける謀略の達人》だったとされます。



 「だから信長とウマが合ったのだ。チャンチャン」で終わらせるのって、なにか変ではないでしょうか?



 光秀は《表の顔と裏の顔を巧みに使い分ける謀略の達人》だったからこそ、表では信長に忠誠を誓うふりをして、裏では何者かと内通していたとか、そのように考えを展開させるべきではないでしょうか?



 鈴木さん・藤本さんが本能寺の変・光秀野望説の根拠にするフロイスの光秀評こそが、実は黒幕説の可能性を高める要素になっていたというわけです。







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 以下の目次に記事をまとめたので、興味がある方は併せて読んでみてください。