陰謀否定論者・懐疑論者と戦うスケプティックハンターの記録

「超常現象や陰謀論の真相を暴いた」と称する懐疑論者と呼ばれる人たちがいますが、彼らは世紀のペテン師軍団なのです。このブログは彼らにほえ面をかかせ、総土下座に追い込むことが目的です。

信長のいた本能寺はイエズス会の火裂弾によるB火災で焼け落ちた

メシア@スケプティックハンター

 

 

 
 通説では追い詰められた信長が家来に「火を放て」と命じたことによって本能寺が焼け落ちたことになっていますが、この説には無理があるんです。



 通説支持者の方は顔面蒼白必至の内容なので、ここから先は読まないことをオススメします……。






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 ……という者です。



 ちなみにこの記事で以下のようなことがわかります。





 ●本能寺は信長みずからが火を放って焼け落ちたことになっているが、それがありえない理由





 これをわかりやすく説明します。



 この記事によって1つ上のレベルの知識人になり、周囲に差をつけることができるようになれると思うので、ぜひ最後まで読んでください!







【「信長の遺骸が見つからないのは不思議なことではない」という主張】

 歴史研究家の鈴木眞哉さんと藤本正行さんは『信長は謀略で殺されたのか』の中で次のようなことを言っています。


 本書が執筆された2005年(平成17)のベストセラーに、加藤廣氏の『信長の棺』(日本経済新聞社)がある。(中略)



 『信長の棺』は、信長の家臣でその伝記『信長公記』の著者、太田牛一を主人公にした時代小説で推理小説でもある。



 伝記の執筆に取り組む牛一は、信長の遺骸が本能寺から消えたことに疑問を抱き、真相を追求する。(中略)



 つぎに作者が展開した推理のほうだが、この点は『信長の棺』の「あとがき」の、冒頭の一節を引用しよう。



──────────
 「本能寺の変」の後、織田信長の遺骸は、忽然と、この世から消えた。



 明智光秀の娘婿・明智左馬助が寺の焼け跡に残って、数日、くまなく捜索したが、どこからも出てこなかった。(中略)



 この一件は「不思議なことに……」で済まされるような問題でも、人物でもあるまいというのが、著者の本作品執筆の動機である。
──────────



 この「あとがき」にあるように、『信長の棺』は一貫して、信長の遺骸の行方を求める牛一の行動を描いており、その謎解きへの興味が読者を引っ張っていく。



 だが、信長の遺骸が行方不明になったことが、本当に「不思議なこと」なのだろうか。



 読者諸賢には是非、その時の本能寺の状況を想像して頂きたい。



 巨大な木造建築が焼け落ちて、奥に一室に閉じこもった小袖姿の信長を含む、人々の死骸を押しつぶしたのである。



 焼け跡の残骸のなかから、死骸が満足な状態で回収できるはずがないし、回収されても誰のものかわかるはずがない。



 衣服は灰になり、指輪も付けていたとは思われず、歯型鑑定もDNA鑑定もなかった時代である。



 もしも回収された死骸が、信長のものと確認できたとすれば、そのほうがよほど不思議である。



 現実の牛一は、信長の遺骸の行方を求めるなどという無駄なことは考えもしなかったろう。それが常識というものである。


 もう1つ。


 八切氏は家康と奇蝶のほか、犯人としてイエズス会も引っ張り出してくる。



 イエズス会黒幕説としては立花氏に先行するが、内容はまったく異なる。



 信長が四国攻めのため、七隻の巨艦と多くの軍船を住吉浦に集結させた。



 それを、マカオを奪うつもりではないかと誤解したイエズス会が、チリ硝石配合の新式火薬で、信長を本能寺ごと吹き飛ばしたというのだ。



 この珍説への反論は、チリ硝石が火薬の原料として海外に輸出されるようになったのは、1830年代以降と言うだけで十分だろう。







【チリ硝石の謎】

 これは意味がよくわかりません。



 「1830年代以降からチリ硝石が海外に輸出されるようになった」ということは、1830年以前からすでに日本にはチリ硝石があったということになるのではないでしょうか?







【本能寺はB火災で焼け落ちた】

 ところでフロイスの『日本史』によると信長は切腹の直前、家来に本能寺に火を放つように命じたそうです。



 つまり、信長みずからが本能寺を焼き落としたというわけです。



 しかし、この通説には無理があるんです。



 鈴木さん・藤本さんがコケにした八切止夫さんの『信長殺し、光秀ではない』から引用します。


 本能寺は午前4時に包囲されたのに、突然、火を発したのが午前7時過ぎという、時間的ギャップと、前日までの大雨で湿度が高かったのに、火勢が強くて、まだぴしょ濡れの筈の本能寺の森の生木まで燃えつくし、民家にまで類焼した。



 そして、信長の焼死体が行方不明になってしまったぐらいの強度の高熱状況からみても、木材や建具の燃焼温度では、火力の熱度が不審である。



 つまり、今日の消防法規でいうA火災ではなく、これは化学出火のB火災の疑いがある。



 当時の化学発火物といえば、文字どおり「火薬」であるが、小銃などによって発射された程度のものでは、これは炸薬だから、たいした事はない。    



 性能の強い火薬による本能寺焼討ちとなれば、コムンバンド(火裂弾)しかない。


 信長に「火を放て」と命じたとされる家来たちは、いったいどのようにしてB火災を引き起こしたというのでしょうか?



 大量のガソリンと火炎放射器でも持っていたのでしょうか?



 チリ硝石うんぬんは横に置いておくとして、イエズス会がなんらかの爆薬で本能寺を爆破したという八切説が適切だと思います。







【本能寺の変・光秀野望説の崩壊】

 本能寺はイエズス会の爆薬で爆破された──これで光秀の《単独野望説》は消えてなくなります。



 本来謀反とは、敵の首を所定の場所にさらすことによってはじめて達成されたことになります。



 光秀ほどの武将がそんな初歩的なことを知らないはずがなく、本能寺にB火災を引き起こして信長の遺体を見つけにくい状況など作るわけがありません。



 つまり光秀は「信長を討って天下を取る!」という野望で本能寺を襲ったわけではなく、「とにかく確実に信長を殺せ」というイエズス会の命令に従っただけだったんです。



 本能寺がB火災で焼け落ち、光秀が信長の首を見つけることができなかったことこそが、イエズス会黒幕説を補強していると言えるんです。



 ちなみに『謎解き!伝説のミステリー』で歴史作家の河合敦さんが次のようなことを言っていた。





 「本能寺の変後、光秀は多くの武将に協力を求めたのですが、信長の遺体を発見できなかったので味方になってもらえなかったんです」





 これが的の外れまくった意見であることは言うまでもないと思います。







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 以下の目次に記事をまとめたので、興味がある方は併せて読んでみてください。