【秀吉の中国大返し論争】無敵の加治将一説

「秀吉の中国大返しに陰謀などなかった」と主張する本能寺の変・黒幕説否定派たち。
しかし、彼らの主張は、あまりに弱すぎるものなのです。
黒幕説否定派の方は顔面蒼白必至の内容なので、ここから先は読まないことをオススメします……。
この記事を書いた私は……
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……という者です。
ちなみにこの記事で以下のようなことがわかります。
●秀吉の中国大返し論争において、加治将一に勝てる人はいない
これをわかりやすく説明します。
この記事によって1つ上のレベルの知識人になり、周囲に差をつけることができるようになれると思うので、ぜひ最後まで読んでください!
【「中国大返しで秀吉軍全員が目的地にたどり着けたわけではない」という主張】
国際日本文化研究センター助教授の呉座勇一さんは『陰謀の日本中世史』の中で次のようなことを言っています。
(前略)大返しの異常なスピードは秀吉が事前に変を知っていた証拠と主張する人がいる。
特に沼城(現在の岡山市)から姫路城まで70キロの距離をわずか1日で撤収したのは驚嘆すべき速度であり、何かトリックがあるのではと勘繰りたくもなる。
しかし谷口克広氏が指摘するように、1日で姫路城に到着できたのは主だった家臣(騎馬武者)だけであり、歩兵は遅れて到着した。
山崎の戦いにさえ間に合わなかった者が大勢いたというのが実情である。
【呉座勇一の初歩的な間違い】
まずは初歩的な間違いから。
呉座さんは沼城から姫路城まで70キロと言っていますが、『歴史読本』に所載された藤本光さんの『疾風怒濤・秀吉東上の経路』によると80キロだそうです。
また、呉座さんはまったく触れてないんですが、秀吉軍1万7000人が移動した総計は箱根駅伝と同じ220キロです。
【重箱の隅つつきにすぎない】
さて、呉座さんは……
「中国大返しはあったことはあったが、秀吉軍1万7000人全員が異常なスピードで目的地にたどり着けたわけではないのだ」
……ということを言いたいようです。
しかし、こんなものは重箱の隅つつきにすぎません。
前に説明しましたが、秀吉の中国大返しがあるのなら、柴田勝家の北陸大返しなどもあってもいいはずだというのに、そんなものは起きませんでした。それに対する反論は1つも書かれていません。
トドメは、やはり加治将一さんの『第六天魔王信長』にお願いしたいと思います。
しばらくして、現地で情報を得るが、そんなことはとても信じられないから、みんなまったく動かなかった。
すぐ近くの奈良を任されていた筒井順慶ですら情報が錯綜し、数日は金縛りだ。
で、ようやく一族を集めて、いったい敵はだれなのか?どのくらいの同調者がいるのかを見極めているところに、光秀から加勢要請が届いたという。一大事どころではない。
しかしニセ情報かもしれないので軽々に動けない。
ましてクーデターの参加、非参加など、おっかなくて1人で決められないから、洞ヶ峠で傍観したのが現実だ。
これが普通の心理で、ソッコー・リターンは絶対ない。
電話もネットもない時代。1週間は情報混乱期だ。
これでその日、毛利軍と和睦、翌日「中国大返し」というスケジューリングが、いかにバかげた説か、理解できるはずである。
【「中国大返しは幸運の産物にすぎない」という主張】
ところで、あの鈴木眞哉さんと藤本正行さんは、秀吉の中国大返しについてなんと言っているのか?
『信長は謀略で殺されたのか』から引用します。
秀吉にも、万一のことが起きた場合の心構えはあったろうし、東上の経路がすべて味方の支配地であったことも幸いした。
さらに、軍事物資が集積された姫路城という拠点があったことなどが有利に作用した。
さらに決定的なのは、変報の入手が遅れた毛利家を欺いて講和を結んだことである。
しかも欺かれたと気付いたあとでも毛利家は追撃してこなかった。
「中国大返し」の成功は、謀略ではなく幸運の産物である。
どうやら鈴木さん・藤本さんは呉座さんとは違い、秀吉軍1万7000人全員が異常なスピードで移動に成功できたと思っているようです。
しかし、これでは私がこれまで引用してきた加治さんの主張には、まったく反論になっていないのは言うまでもないことです。
加治さん恐るべし……。
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