陰謀否定論者・懐疑論者と戦うスケプティックハンターの記録

「超常現象や陰謀論の真相を暴いた」と称する懐疑論者と呼ばれる人たちがいますが、彼らは世紀のペテン師軍団なのです。このブログは彼らにほえ面をかかせ、総土下座に追い込むことが目的です。

秀吉は非凡な政治手腕で様々な問題を次々と解決していった

メシア@スケプティックハンター

 

 

 「秀吉って尋常でない女好きだったり、嫌な噂もよく聞く人だけど……」



 「秀吉っていったいどういう人だったの?本当のところが知りたい……」



 ──この記事はこのような悩みを解決します。







 この記事を書いた私は……



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 ……という者です。



 ちなみにこの記事で以下のようなことがわかります。





 ●秀吉の善政の数々





 これをわかりやすく説明します。



 この記事によって1つ上のレベルの知識人になり、周囲に差をつけることができるようになれると思うので、ぜひ最後まで読んでください!







【フロイスが記す秀吉の黒歴史】

 歴史学者・渡邊大門さんの『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』から少し長くなりますが引用します。


兄弟姉妹を斬り捨てた秀吉
 秀吉には弟の秀長らの兄弟姉妹がいたが、実はほかにも存在したという。



 フロイス『日本史』12章には、次のような興味深い記事がある。



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 1人の若者が、いずれも美々しく豪華な衣装をまとった2、30人の身分の高い武士を従えて、大坂の政庁(大阪城)に現れるという出来事があった。



 この若者は伊勢の国から来たのであり、関白(秀吉)の実の兄弟と自称し、同人を知る多くの人がそれを確信していた。
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 これは天正15年(1587)のことで、秀吉は51歳になっていた。



 この若者に関してはほかに史料がなく、史実であるか否かですら判然としない。



 秀吉はこの若者が実の兄弟であることを確認すべく、次のように母の大政所を問い詰めた。



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 関白(秀吉)は、傲慢、尊大、否それ以上の軽蔑の念をこめて、自らの母(大政所)に対し、かの人物を息子として知っているかどうか、そして息子として認めるかどうかと問い質した。



 彼女(大政所)はその男を息子として認知することを恥じたので、デウスに対する恐れも抱かず、正義のなんたるやも知らぬ身として、苛酷にも彼の申し立てを否定し、人非人的に、そのような者を生んだ覚えはないと言い渡した、
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 おそらく若者は、秀吉と面会した際に何らかの要求(金銭など)をしたのかもしれない。



 大政所は秀吉の高圧的な態度での質問に対して、「若者のことを知らない」と答えざるをえなかった。



 大政所も後ろめたいところがあり、何かと不都合なことがあったのであろう。



 最近の研究によると、大政所には3回以上の結婚歴があったと指摘されている(服部:2012)。



 大政所は生活を維持するために、男性を頼るのは止むを得なかった。



 秀吉が15歳で家を飛び出して以降、大政所は不特定の男性と関係を持ったのは確実だったという。



 大政所が知らないとなれば、若者は秀吉に虚偽を述べたことになる。



 その結果、若者には苛酷な運命が待ち受けていた。



 続けて。『日本史』を引用しよう。



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 その言葉(大政所が知らないと言ったこと)を言い終えるか負えないうちに、件の若者は従者ともども捕縛され、関白(秀吉)の面前で斬首され、それらの首は棒に刺され、都への街道筋に曝された。



 このように関白(秀吉)は己の肉親者や血族の者すら(己に不都合とあれば)許しはしなかったのである。
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 秀吉にとって、秀長ら以外に兄弟姉妹が存在することは「不都合な真実」だった。



 この若者のように、秀吉の知らない者が兄弟姉妹だったということは、決してあってはならないことである。



 ましてや秀吉になんらかの要求(金銭など)があったとするならば、許しがたかったに違いない。



 秀吉が若者を斬首して、首を晒すのは常套手段だった。



 以後、同様のことが起きないように、強く警告を発したのである。



無残な最期を遂げた姉妹 
 無残な最期を遂げたのは、この若者だけではなかった。



 秀吉は先手を打って、他にも類例がないかを探索していた。



 その結果、秀吉に姉妹のいたことが判明したのだ。



 フロイス『日本史』には、次のように書かれている。



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 その(若者が殺されてから)後3、4ヶ月を経、関白(秀吉)は、尾張の国に他に(自分の)姉妹がいて、貧しい農民であるらしいことを耳にした。



 そこで彼は己の血統が賤しいことを打ち消そうとし、姉妹として認め(それ相応の)待遇をするからと言い、当人が望みもせぬのに彼女を都へ召喚するように命じた。
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 秀吉が姉妹の存在を偶然に知ったように記されているが、実際には執拗な探索を行ったのだろう。



 あるいは、大政所に心当たりを尋ねたのかもしれない。



 「己の血統が賤しいことを打ち消そう」としたというのは、血のつながりのある兄弟姉妹を根絶やしにすることを意味する。



 秀吉は、自分の知らない兄弟姉妹を抹殺したかったのである。



 姉妹がどうなったのかは、次のとおりである。



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 その哀れな女は、使者の悪意と欺瞞に気が付かず、天からの良運と幸福が授けられたものと思いこみ、できるだけの準備をし、幾人かの身内の婦人たちに伴われて(都に)出向いた。



 (しかるに)その姉妹は、入京するやいなやただちに捕縛され、他の婦人たちもことごとく無残にも斬首されてしまった。
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 この姉妹は、天下人の秀吉との面会が幸運をもたらすと有頂天になった。



 秀吉と面会するのにふさわしい服装を整え、来るべき輝かしい未来を信じて入洛したのだった。



 しかし、結果は史料にあるとおり無残なもので、おそらく首は晒しものにされたに違いない。



女好きだった秀吉
 一説によると、その秀吉は女好きだったという。



 秀吉の女好きに関しては、フロイス『日本史』が次のように書いている。



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 (秀吉は)齢すでに50を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。



 この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。



 彼は政庁内に大身たちの若い娘を300名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた。
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 当時の50代は老人だったので、フロイスは秀吉の精力ぶりに驚いたのであろう。



 また、当時のヨーロッパでは、一夫一婦制が基本だった。



 そのような事情と相俟って、フロイスには秀吉が不純で肉欲に溺れた野蛮人のように思えたのだ。



 では、秀吉が囲った女性はどのように集められたのか、『日本史』の続きを確認しよう。



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 彼(秀吉)がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の1つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった。



 彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者とてはなく、彼は、国主や君侯、貴族、平民たちの娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した。
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 このように記したうえで、秀吉の性格が尊大であり、この悪癖が度を過ぎていること、そして「彼(秀吉)は自分の行為がいかに賤しく不正で卑劣であるかにぜんぜん気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し命令するままに振舞って楽しんでいた」と結んでいる。



 ここまで記した秀吉の「黒歴史」は、ほとんど日本側の史料には見られない。



 史実か否か、にわかに判断できないのも事実である。(後略)







【フロイスの当てつけ】

       

 井上慶雪さんなどはこのフロイスの話を事実として信じ込んでいるようですが、私はイエズス会を裏切った秀吉への当てつけ目的での創作だと見ています。



 秀吉の言葉にこういうものがあります。


 日本国内を無事安穏に統治したく、それが実現したうえは、この日本国を弟の美濃殿(羽柴秀長)に渡し、予自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。(中略)



 予はシナ人を支配する以外には彼らになにも求めず、予自身シナには居住せず、彼らの領土を奪うつもりはない。



 シナを征服した暁には、その地のいたるところにキリシタンの教会を建てさせ、シナ人はことごとくキリシタンになるように命ずるであろう。


 これは1586年に秀吉が宣教師のコエリョに語ったものなんですが、秀吉は本能寺の変からしばらの間はイエズス会に協力するふりをしていたようです。



 そして翌1587年にバテレン追放令を発し、秀吉はイエズス会を裏切ります。



 これは当然のこと。秀吉の真の敵は信長ではなく、信長を操って日本と中国を支配しようとしていたイエズス会なんですから。



 そんな秀吉への当てつけの意味を込めて、フロイスは前述のような話をでっちあげたわけです。



 そうとしか考えられないほど秀吉は温かい人物であり、民のために尽くした名君なんです。







【秀吉の名采配の数々】

 たとえば、日本歴史宗教研究所所長の武村鏡村さんの調べによると、あの有名な比叡山焼き討ちの際、明智光秀や佐久間信盛が信長の命令どおりに女子供の首を刎ねる中、秀吉は信長には内緒に投降した者の命を助けたそうです。



 そんな秀吉が天皇の次に偉い関白になった頃、京都の町は治安が悪く荒れ果てていました。



 そこで秀吉は中国の西安やドイツのネルトリンケンのような城壁で囲まれた都市を参考に、御土居(おどい)と呼ばれる丘で京都の町をぐるりと囲み、敵の侵入などから京都の町を守ったんです。



 ちなみにこのとき、労働者の住居不足という問題が発生。



 当時の京都の町の区画の中心には空白部分があったんですが、平安京が開かれて以来800年、どんな権力者も空白部分に手を出すことはありませんでした。



 しかし秀吉は区画の空白部分にも隙間なく住居を建て、労働者の住居を大幅に増やすことに成功したんです。



 また当時、仏教勢力は強い力を持っており、異なる宗派で争うこともしばしばでした。



 そこで秀吉は治安維持のため、寺を町中から住民の少ない町はずれに移させたんです。



 こうしてできたのが現在の寺町通で、地域の在来勢力とのつながりを強制的に断ち切られた仏教勢力は次第に弱体化していきました。







【下々の気持ちがわかっていた秀吉】

 秀吉の見事な政治手腕で住む家が増え、治安が安定した京都の町には、さらに多くの人々が集まりました。



 なんとフロイスでさえ……





 「その変貌ぶりは以前にこの町を見たものでなければ信じられぬほどであった」





 ……と絶賛しているほどです。



 貧しい農家に生まれ、幼い頃に父を亡くし、山で集めた薪を売ったりしながら各地を転々とする少年時代を過ごした秀吉。



 18歳で信長に仕え、戦場を駆け巡りながらたたきあげで出世していった秀吉は、下々の気持ちをよくわかっていたんです。



 秀吉のことを低く評価したり、ボロクソに言ったりする人たちというのは、こうした歴史的事実をまったく知らないのだと思われます。







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 以下の目次に記事をまとめたので、興味がある方は併せて読んでみてください。