【坂本龍馬暗殺】京都見廻組犯人説がぜったいにありえない証拠(前編)

歴史学者の磯田道史さんと直木賞作家の中村彰彦さんは、坂本龍馬暗殺の犯人は京都見廻組としています。
しかし、これは完全に勉強不足で的外れな考えなんです。
磯田さんと中村さんの信者の方は赤面必至の内容なので、ここから先は読まないことをオススメします……。
この記事を書いた私は……
●人気ブログランキングとにほんブログ村のオカルトランキング最高1位
●同じくにほんブログ村の医療ランキング最高4位
●ライブドアブログの歴史ランキング最高2位
●エキサイトブログの南京大虐殺タグ・人気記事ランキング1位
●グーグル検索結果3位以上の記事100本以上
……という者です。
ちなみにこの記事で以下のようなことがわかります。
●坂本龍馬暗殺・京都見廻組犯人説はぜったいにありえない
これをわかりやすく説明します。
この記事を読むことで1つ上のレベルの知識人になり、周囲に差をつけることができるようになれると思うので、ぜひ最後まで読んでください!
【京都見廻組犯人説を推す磯田道史と中村彰彦】
さて、お待たせしました。いよいよ幕末最大の謎《坂本龍馬暗殺》です!
龍馬を殺害したのは誰なのか?黒幕はいるのか?動機はなんなのか?──1億総名探偵となって無数の推理が展開されてきたこの事件。
ここに私なりの結論を述べたいと思います。
その前に『磯田道史と日本史を語ろう』から磯田道史さんと中村彰彦さんの対談を引用します。
「暗殺」ではなかった!?
中村 まずはじめに言っておきたいのは、龍馬暗殺については奇説珍説入り乱れている、ということです。
歴史をまともに検証すれば実行犯が京都見廻組であることはほぼ確定で、それ以外の人間を実行犯として立てる説にはろくなものがありません。
世の中に出回っているものをみても、通り魔的殺人犯説から始まって、土佐藩の後藤象二郎説や武器商人のグラバー説、中岡慎太郎との“抱き合い心中”説まであります。
磯田 そんなに面白いものがあるんですか(笑)。
しかし、たとえば後藤象二郎説といわれても後藤が龍馬を暗殺する動機がありませんよね。
中村 直木賞作家の三好徹氏の説によれば龍馬が藩船の夕顔丸船内で書いた「船中八策」を、後藤が自分の手柄として発表したいと考え、龍馬の存在が邪魔になったのが動機だといっています。
しかし夕顔丸には他に何人もいたわけで、手柄を横取りしてもばれてしまう。
磯田 土佐藩は龍馬が殺害される前に「命を狙われていて危ないから土佐藩邸に移った方がいい」と忠告しています。
殺そうと思っている人間にこんなことは言いませんから、それは筋として成り立ちませんよね。
中村 状況や関係性を一切考慮していない珍説の類が後を絶たないんです。
そもそも「龍馬暗殺」と言った時点で事実誤認がありますよね。
磯田 そうなんです。その点についてはこの対談でどうしても言っておきたかった。
「暗殺」というのは通常、政府の要人をそれ以外の人間が不当に手にかけたことを指しますが、龍馬の暗殺にこれが当てはまるのかどうか。
中村 龍馬は近江屋で襲撃される前に、伏見の寺田屋で伏見奉行所の手の者に襲われています。
この時龍馬は長州藩の支藩長府藩、三吉慎蔵を連れていた。
禁門の変以降、長州人は入京を禁じられていましたから、これは罪を問われても仕方のない行動でした。
磯田 しかもその時、龍馬は伏見奉行所の同心2名に短筒を放っていますから、幕府や会津の論理としては、暗殺ではなく正当な業務執行なのです。
中村 当然、手に余れば討ち取ってよし、ということになっていました。
【定説は見廻組実行犯説】
磯田 そういうことから考えても、「龍馬暗殺」ではなくて「斬殺」、斬り殺されたというのがニュートラルな言い方ですよね。
中村 見廻組が実行したという点については、おっしゃるとおり、普通に考えれば異論のないところだと思います。
問題はその先で、「近江屋の2階に駆け上がり、龍馬に致命の一太刀を浴びせた殺害者は誰か」と「見廻組に指示を出したのかは誰か」、つまり「直接殺害者」と「首謀者」の2点。
まず、殺害者について考えてみたいと思います。
この件については生涯を通じて執念を燃やして調べつくした人がいます。
土佐勤王党に参加していた田中光顕です。
彼は後に新政府で警視総監や宮内大臣を歴任しましたが、土佐出身で龍馬を非常に慕っていた。
政界引退後は志士たちの検証に熱心に取り組み、遺墨、遺品、手紙などあらゆるものを集めていました。
その彼が出した結論は、「龍馬を殺害したのは小太刀の名人早川桂之助、渡辺太郎である」というものでした。
満95歳で死ぬ間際に遺言として残したので、微妙に名前を間違えていますが、これは見廻組の桂隼之介と渡辺吉太郎のことでしょう。
渡辺吉太郎は渡辺一郎(のち篤)という別の男かもしれません。
ここに見廻組組頭佐々木只三郎と今井信郎を加えた3人から4人が近江屋の2階に上がった殺害実行者の可能性が高い。
中村 佐々木は組頭だから、2階には上がらないんじゃないかなあ。
磯田 いずれにしろ、近江屋という狭い部屋の中で斬り合いということを考えると、小太刀の名人が斬ったというのも納得がいきますし、私たち以上に熱心に調査を続けた田中光顕の結論は、やはり私にとっては非常に重いものです。
中村 私は桂や渡辺の剣の腕前に関する情報がないのが気になるんです。
私が実行犯とみているのは、剣の達人として知られていた今井信郎です。
彼は非常に詳しい証言を残している。
戊辰戦争を生き抜き、函館戦争で降伏した後に取調べを受け、そこで見廻組が龍馬殺害を実行したことを自供しています。
その要点は次のようなものでした。
「(慶応3〈1867年〉)11月上旬に佐々木只三郎の宿舎に呼ばれ、自分と渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之介、土肥仲蔵、桜井大三郎の6人が出向き、龍馬捕縛の指示を受けた。
町屋に赴き、佐々木、渡辺、高橋、桂が2階に踏み込み、自分と土肥、桜井は見張りをした。
自分は家のものが騒ぎ立てたので取り静めた。
渡辺、高橋、桂は『龍馬を打ち留めた』と言い、その後佐々木の指図で宿舎に引き揚げた。
自分は龍馬がどういう人間なのかも知らなかった。
佐々木に指図したのが老中だったのか、京都守護職・松平容保だったのか、知らない」
今井信郎はこの時点では「見張り役だった」と主張しています。
これによって彼は禁固刑となるのですが釈放後の明治33(1900)年に『国民新聞』記者の結城礼一郎という人物の取材に応じ、談話を残しています。
ここではじめて今井は自分が龍馬を斬ったと話す。
この談話をまとめた結城の記述には不正確な部分が多々あるのですが、ともかく龍馬に一太刀浴びせたのは自分だ、と今井が証言したことは間違いありません。
函館戦争直後の供述で「見張り」と言ったのは、あの時点で「俺がやった」と言えば間違いなく斬首にされていたからでしょう。
磯田 今井は捕まってからの供述の中で、鳥羽伏見の戦いで死んだ人間の名前を挙げることで、生きている組員を庇った可能性もあります。
しかし史料を長く読んできた人間の感覚から言うと、喋れるところまでは正直に喋っているように思います。
【今井信郎の詳細な証言】
中村 さらに今井が大正7(1918)年に死去する前に語り残した「家伝」にはこうあります。
「見廻組の6人で集まった後、斬りこみの順番を決めるクジを引いたところ、自分は3番刀になったので憤慨し、引きなおしを要求して1番刀になった。
近江屋の2階へ上がり、奥8畳の襖を開けると男が2人火鉢を囲んで座っていた。
2人いるので一瞬迷ったが、とっさに『才谷(坂本)先生、お久しぶりです』と声をかけると、右手の男が『ハテ、どなたでしたかなぁ』と顔を向けた。
これが坂本龍馬に違いない、と抜き放ち、額を真横に払った」
実に詳細な証言です。
供述書も家伝も、元の文章を読んでみると非常に簡潔な言い回しで、武家らしい表現をしています。
磯田 これらは重要参考資料としていいと思います。
そして史料的価値は落ちますが、今井の妻の証言も残っています。
その内容はというと、今井は事件当日、渡辺吉太郎に呼ばれて出て行った。
今井は京都見廻組の新入りでしたから、先輩隊士に呼ばれて行ったというのは序列からすると正しい。
そしてここが重要なのですが、帰ってきた時に、今井は指に怪我をしていたといいます。
もし見張りをしていただけならば傷はできないはずですから、2階まで行った、というところまでは可能性として残ると思う。
中村 今井自身は「龍馬をなぎ払ったあと、後から来た見廻組組員がとどめを刺そうと入って来た時に抜き身の刀を持っており、身をかわす場所も暇もなく、すれ違った時に右手人差し指を斬られた」と言っています。非常に描写が細かい。
磯田 しかも今井信郎は「片手打ち」で有名ですよね。
中村 非常に腕の立つ男だったそうです。
18歳で直心影流の榊原健吉に入門し、3年で免許を得ている。
この道場の荒稽古は薪割り稽古といわれていたほどです。
柱みたいな太い角材にグリップをつけたような振り棒を何度も素振りして腕力を鍛える。
私も素振りをやってみたけれど、とにかく重い。
5、6回振ったら「なかなかできるね」と言われたほどです(笑)。
今井の腕はものすごく太くて、満76歳で死ぬ前、息子の信夫が「親父もずいぶんやせたな」と思って布団に寝ている今井の横に寝てみたら、腕が自分の倍くらい太かったのに驚いたとか。
その今井の得意技は磯田さんのご指摘の通り「片手打ち」です。
ある時水戸藩と試合をして「片手打ち」を繰り出したところ、面の上からだったにもかかわらず、水戸藩士は頭蓋を割られて死亡してしまった。
以後、今井の片手打ちは禁じ手となったそうです。
この片手で抜き即斬の一撃が龍馬の頭蓋を割った、と考えられます。
【38カ所もの刀傷】
磯田 龍馬が頭を割られた後に「石川(中岡の変名)刀はないか」と言ったり「脳漿(のうしょう)が出てるから助からない」と言っていたなど、重傷を負いながらもかなり喋っているのが不思議です。
能の傷口が大きく、ぐしゃぐしゃではさすがに喋れないと思うのですが、スパッと切れたのか。
このあたりはどんな深さで刀が入ったのかということや、傷口の状態などを検討する必要がありますね。
中村 今井は「余りにも見事に切れたので、道場の榊原師匠に報告したい」と言って刀を妻に託したという話もあります。
磯田 さらに事件について京都守護職から褒状を賜ったという妻の証言もある。
うーむ、しかし「一太刀でバッサリ」というのはどうも引っ掛かります。
というのも、あの時龍馬は38カ所も切りつけられています。
中岡も24カ所。手も足もズタズタだった。
やはり現場状況と凶器の推定、傷の数を考えると、武器は小さく小回りのきくものである可能性が捨て切れない。
今井の証言だけで「今井が一太刀を浴びせた」と断定するまでには、まだ疑問が残ります。
中村 今井は一太刀だけでなく、龍馬が自分の刀を取ろうとして背を見せた時に背中に斬りつけてもいます。
傷の多さについては、こう考えられませんか。
いくさの際に敵中に斬り込むときは1番刀が倒した人間を、2番刀、3番刀がつぎつぎ斬りつけながら進んでいくものです。そうやって度胸をつけるんでしょう。
彰義隊の記録を見ても、後から来る者が倒れた隊士につぎつぎに斬りつけるから、遺体が膾(なます)のようになっていたという。
近江屋事件でも中岡が「もうだめだと思ったら、また別のやつが来て斬りつけてきた」と言っている。
中岡の証言は、自身も重傷を負って意識が混濁していたせいか、おかしなところがたくさんあって、「刺客は真っ先に自分に斬りつけてきた」と言っていますが、リアルな部分もある。
「手の次に足を斬られて足が立たなくなり、仕方がないからそのまま倒れて斬らせておくより仕様がなかった」というのはかなり生々しい表現です。
これは2番刀、3番刀の者も中岡を斬った、と考えてもいいのではないでしょうか。(中略)
【重要人物の遺言】
磯田 私は中村さんのお考えとは違うんですが、それでも手代木が龍馬の死に関する重要人物であるとみています。
今井信郎の供述によると、今井は近江屋の襲撃が誰の命令だったのかについて、こう述べています。
「旧幕府では閣老など重職者からの命令を御差図と呼んでいた。
見廻組は松平肥後守(会津公容保)の配下だから、“御指図”というからには、会津の容保からの差図か」
“差図か”としていますが、見廻組は会津藩配下ですから、恐らく龍馬襲撃は公用方の手代木が企画し、松平容保の命として“御差図”が下り、実弟の只三郎が実行した、というのがオーソドックスな説になろうかと思います。
手代木の遺族がまとめた伝記『手代木直右衛門傳』、これは私家版なので東京にも1冊くらいしかない珍しい資料なのですが、ここに彼が死の数日前に龍馬襲撃について語った証言があります。
そこには、「弟が坂本を殺した。当時坂本は薩長の連合を謀り、土佐の藩論を覆して倒幕に一致させたので幕府の嫌忌を買っていた。某諸侯の命を受けて坂本の隠れ家を襲って斬殺した」と書かれています。
この『手代木傳』の編者の大泉という人物は、殺害を命じた「某諸侯」について「所司代桑名侯ではないか」と取ってつけたように書き加えています。
桑名侯とは桑名藩主で松平容保の実弟、松平定敬(さだあき)のこと。
しかし桑名藩が見廻組に指示を出せるはずがないので、実際は会津藩からという形で、手代木から只三郎に指示した可能性が高い。
中村 その伝記は私は架蔵していますので、磯田さんのと私のと、少なくとも東京に2冊はある(笑)。
ともかく、容保の名をあえて出さないようにしているのは確かでしょうね。
(後編に続く)
最後までお読みいただきありがとうございます。感想をいただければ励みになります。
以下の目次に記事をまとめたので、興味がある方は併せて読んでみてください。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。