明治天皇をすり替える「箕作奎吾計画」その状況証拠の数々

江戸時代末期、日本政府とイギリス政府はグルになり、箕作奎吾を明治天皇にする計画を着々と進めていました。
その状況証拠の数々を紹介します。
教科書信者と皇室関係者は顔面蒼白必至の内容なので、ここから先は読まないことをオススメします……。
この記事を書いた私は……
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……という者です。
ちなみにこの記事で以下のようなことがわかります。
●箕作奎吾を明治天皇にする計画の状況証拠
これをわかりやすく説明します。
この記事によって1つ上のレベルの知識人になり、周囲に差をつけることができるようになれると思うので、ぜひ最後まで読んでください!
【箕作奎吾計画】
徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜。
その弟の徳川昭武は1867年、フランスのパリ万国博覧会に招待されていたんですが、なんとその頃、イギリス留学中の箕作奎吾と会っていたことが判明しているんです。
その箕作奎吾がイギリス留学から帰国したのが1868年8月13日、そしてその37日後の9月19日に、なんと孝明天皇が次のような詔書を発したんです。
朝廷の手綱が1度ゆるんだため、政権は長い間武家にまかせた。
今、朕は、我が始祖と中興の祖の威霊に頼り、新たに皇統を継ぎ、大政を古式に戻す。
《威霊》という言葉の意味を説明するのは難しいんですが、
「血筋以外の要素によって新たに皇位を継承した」
といったような意味だそうです。
この詔書から約1か月後の10月12日、明治天皇の即位の礼がおこなわれているんです。
まさに箕作奎吾の帰国に合わせて事が運んでいます。
こうした状況証拠からも、箕作奎吾と睦仁親王をすり替える計画が実際におこなわれていたことがわかると思います。
【首謀者はイギリス】
では、箕作奎吾計画の首謀者は誰で、なぜ箕作奎吾が選ばれたのか?
首謀者は言うまでもなく、日本を支配下に置きたいイギリスです。
イギリスにとって外国嫌いの孝明天皇のような天皇は願い下げ。
英語が堪能で、怜悧で、イギリスの命令を素直に聞いてくれる天皇──これに該当するのが、まさに箕作奎吾だったんです。
しかも箕作奎吾は睦仁親王と生まれ年が同じときています。
イギリスにとって、明治天皇にこれ以上ふさわしい人材はいなかったことでしょう。
【箕作奎吾の墓のミステリー】
そんな箕作奎吾は歴史的には、1871年7月31日、隅田川で遊泳中に19歳で溺死したことになっています。
あの天才少年の箕作奎吾が川で溺れ死ぬ──これだけでも胡散臭さ満点なのですが、さらに胡散臭いのが箕作奎吾の墓なんです。
箕作奎吾の墓は谷中霊園に建てられているんですが、これはちょっとおかしいことなんです。
というのも、谷中霊園が青山霊園などとともに開設されたのは1874年9月1日のことだからです。
つまり箕作奎吾は亡くなってから埋葬してもらうまで、なぜか3年以上のタイムラグが存在するんです。
なぜこんな不自然な状況が発生したのか?
理由は簡単。箕作奎吾は実は死んでなどいなかったからです。
川で死んだと世間に思わせ、裏ではこっそり明治天皇になっていた──というわけです。
私がこれだけ状況証拠を突き付けてもまだ箕作奎吾計画を信じられない人は、さっさと教科書の中の捏造された幕末維新に戻ることをオススメします。
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