メシアの「知」の冒険(ムラゴンブログ編)

「超常現象や陰謀論の真相を暴いた」と称する懐疑論者と呼ばれる人たちがいますが、彼らは世紀のペテン師軍団なのです。このブログは彼らにほえ面をかかせ、総土下座に追い込むことが目的です。

「天津教は一条實考らを竹内文書の権威付けに利用した」への反論

メシア@永遠の真実追及者

 

 懐疑主義団体のASIOSは「天津教は有識者たちを竹内文書の権威付けに利用した」と言っています。
 

 

 しかし、これは的の外れた主張なんです。
 

 

 ASIOSの信者の方は赤面必至の内容なので、ここから先は読まないことをオススメします……。
 

 

 ──この記事はこのような悩みを解決します。






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 ……という者です。 


 ちなみにこの記事で以下のようなことがわかります。




 ●名だたる有識者たちが天津教竹内文書に関心を示した




 これをわかりやすく説明します。


 この記事を読むことで1つ上のレベルの知識人になり、周囲に差をつけることができるようになれると思うので、ぜひ最後まで読んでください!







【竹内文書の伝説】

 懐疑論者の藤野七穂さんはASIOSの『謎解き超常現象Ⅲ』の中で、竹内文書の伝説を次のように紹介しています。


 日本には「古史古伝」と呼ばれる破天荒な古代の歴史を記した文献群が存在する。



 わが国最古の書物『古事記』以前の歴史を記していることから、“『古事記』以前の書”とさえ呼ぶ研究者もあるほどである。



 今日では、『上津文』『宮下文献』『竹内文献』『九鬼文献』など10以上の存在が知られている。



 なかでも代表格とみなされているのが『竹内文献』である。



 “神代の万国史”と一部でいわれているように、超古代の神人たちの記録である。



 そこには世界各地を「天空浮船(あめそらうきふね)」で巡幸する太古天皇の事蹟や全世界に広がった皇族らの活躍、錆びない神秘金属「ヒヒ(イ)ロカネ」、失われた大陸「ミヨイ」「タミアラ」、キリスト・モーゼといった古代聖者の渡日伝承など驚愕の内容を伝えた秘史なのである。



 文献は越中富山の御皇城山(おみじんやま・呉羽山)東麓で“皇祖皇太神宮”(天神人祖一神宮ともいう)を祭祀してきた神主家・竹内家に連綿として伝えられてきたもので、神武天皇以前に遡る壮大な皇統譜《神代文字神霊宝巻》(天神7代・上古(皇統・神皇)25代・不合朝73代)を中核とするものなのだ。



 これは明治時代になり、竹内家の墓に埋められていた文献を掘り起こして東京に持ち出した、竹内宿禰の66代の後裔を自称する竹内巨磨(たけうちきよまろ)が、昭和3年(1928)3月29日に家伝の文書を公開することで世に出たものであった。







【「天津教は有識者たちを竹内文書の権威付けに利用した」という主張】

 そんな藤野さんは同じく『謎解き超常現象Ⅲ』の中でこのようなことを言っています。


 天津教による「御神宝」の公開は大正11年(1922)の「日蓮上人の真筆」5幅ほか3点から始まる(『デハ話ソウ』)。



 大正14年には後醍醐天皇・長慶天皇「御真筆数十点」が展覧されている。(中略)



 当初、竹内家居宅(21畳と8畳)で観覧させていたが、手狭ということでのちには21畳間にある倉庫を新設して、昭和10年12月初めまで拝観が実施されていた。



 昭和2、3年頃から予約制となり、神殿下の穴倉から「御神宝」を取り出して拝観させていた。



 昭和3年3月29日、前田惇(あつし)・高畠康寿(やすじゅ)、一条實孝(さねたか)・有馬良橘(りょうきつ)らを案内してきたのだが、「名士拝観」の最初であったという(『特高月報』昭和17年4月分)。



 この日、「天王塚」見学のついでに訪れた一条ら10人は、午後1時、天津教で、不開瓶1本を開封のうえ《神代文字神霊宝巻》の不合第3代途中までの前巻を実見することになる。



 天津教側から彼らは権威付けのためか、「拝覧立会人」に位置づけられてしまう。







【竹内文書を支持した有識者たち】

 藤野さんは竹内文書公開に立ち会った有識者を4人紹介していますが、ほかにも




 ●筑紫熊七(海軍中将)


 ●堀内三郎(海軍中将)


 ●横山正恭(海軍少将)


 ●伊藤武雄(宮内省)




 という人たちもいたんです。


 また、藤野さんはまったく触れていないんですが、その後も天津教の皇祖皇太神宮には、日本海軍技術将校の矢野祐太郎や、解脱会の岡野金剛といった人たちが訪れています。


 また、竹内巨麿が不敬罪で逮捕された際




 ●鵜沢総明(うざわふさあき 明治大学前総長・法学博士)


 ●田多井四郎治(日本弁護士会理事長)


 ●宮本正美(弁護士)




 といった人たちが巨麿の弁護についたんです。


 もう1つ。藤野さんはまったく触れていないんですが、実は高畠康寿というのは竹内文書を語る際の重要キーワードである《神代文字》の肯定論者として広く知られる人なんです。






【皇祖皇太神宮を訪れた元皇族】

 ダメ押しにもう1つ。


 昭和29年の皇祖皇太神宮に、なんと昭和天皇の義兄である久邇朝融(くにあさあきら)が訪れたことがあるんです。


 巨麿の孫の竹内康裕さんによると、巨麿は久邇朝融のことを「久邇宮殿下」と呼び、いろいろな話をされたそうです。


 無論、天津教が久邇朝融を強引に呼び出したりしたわけではありません。


 藤野さんは




 「有識者たちは皇祖皇太神宮についでに訪れただけだ」


 「天津教は有識者たちを権威付けに利用している」




 などと言っていますが、それが的の外れた意見であることがわかると思います。






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 以下の目次に記事をまとめたので、興味がある方は併せて読んでみてください。